気づくともう17歳だった


数年ぶりに来てみた。誰も見ていないだろうけどひっそりと更新したいと思う。

ぴゅあぴゅあはーと」で更新が止まっているところをみると、15歳でブログ更新をやめたみたいだね。
なんだか勢いでアメブロを始めっちゃって、そこにばかり入り浸ってたみたい。

それも去年の三月に止めて、いまではネットはほとんどやらなくなった。無限に娯楽を提供し続けるインターネット。その娯楽そのものに割と飽きたからだと思う。


そういう点を始めとして、僕は変わった。成長したのだろうか?よくわからない。

数年ぶりにここの記事を見てみたら、すごくおもしろかったんだ。全然覚えてない話でも結構笑えた。
日々の何気ない歓び、笑い、未来の幸せを信じて疑わない無邪気さ。今の僕にはああいう記事は書けないな・・・。

僕は変わった。以前「劣化」というワードでその変化を表現したことがあったみたいだけど、たぶん違う。「欠落」。それが最も的確な表現のように思える。高校生になって、いろいろなことを体験して、将来がリアルになった。楽観的でいられなくなった心から、無邪気な遊び心がこぼれ落ちたんだと思う。

でも、やっぱり成長もしてるんだ。昔できなかったことができるようになってきた。将来の夢も思い描けてきた。部活で部長になって、何人もの人を動かす計画をイチから考えて実行することも少しずつ上手になってきた。


じゃあ今と昔、どっちが幸せなのか?

答えは正直「わからない」。

僕は全然本を読まないが、自分の心理メカニズムを考えるのがすごく好きだ。
本がその思考を向上させるものだってのは分かるんだけど自分で考えたい。そう思う。いやただ単に面倒くさがってるだけなんだけどね。そういうところは変わらないなぁ。

んで、ここからは僕が本に頼らない薄弱な思考で練り上げた幸福論を語る。

心には幸福が収まる器があるんだと勝手に考えている。その器が満たされれば、人は幸せだと感じるんだ。
ただ、その器の大きさは一定ではない。個体差ももちろんあるがそういう話ではない。ある特定の1人の中の器の大きさは一定ではなく変化し続ける。

どう変化するか?自分の幸福観が変わるたびにそれは起きるのだと思う。
したがって新しいことを経験したとき、新しいことを知った時に器の変化は起こる。

10代の若者は経験と認知の連続。新たな幸せの形を知り、器は大きくなっていく。
器が大きくなれば、それまでの幸せでは満たされない。自信を不幸だと思う。

「幸せになること」が人生の目標だとすれば、これはなんて残念なことなのだろう。
こうなるくらいなら人は何も経験せず、何も知らなければいいのに。


楽しかったあの頃で、時が止まってしまえばよかったのに。


僕の器はこの数年で驚くほどに大きくなってしまった。自分の力でこれをいっぱいにできるか不安になるほどに。

でも、進むしかないんだな。こういうのを「賽は投げられた」っていうのかな。違うわたぶん。

拡大させてしまった器は、もう仕方ない。
流れた時は、取り戻せない。

こんなところに逃げ込んでないで、またせっせと幸せを掴み取りに行かなきゃな。
ははっ。