社会人そろそろ3年目

はてなブログに移行してから初めての記事です。

最近自分の人生これでいいのかなという感じの漠然とした悩みがすごくて、

仕事がたてこんで爆死進行なこともあって希死念慮がとても高まっている

それでこの間コミティア行ったらマンガってやっぱいいなーって思ったり。

とにかく僕も何かを作りたい、そう思った

作っている自分でいたいんだな、ということがわかった

ただ、何をつくりたいのかがわからないのだ

結局創作ワナビ勢でしかなかったんだなって思わされる

25歳にそろそろなろうというタイミングでようやく気付かされた

ワナビなりに動画はちょっと作れるしちょっとデザインできるしちょっと物語かけるしという感じでちょっとずつかじった結果結局なんもないような

なんもないのか?持っている手札がしょぼすぎるけどこの組み合わせでもしかしたらなにかできるのかも。そういう気持ちがぐるぐるするだけで結局何も行動を起こせない。

 

とにかく、自分を見つめなおすきっかけとしても、一番簡単な創作である自伝的なやつをやろうかなと思った。

 

さっそくやります。

まず生まれてから物心つくまでの幼少期。

このころは幼稚園に行きたくなさ過ぎてずる休みしたり幼稚園に行っても午前中は泣き明かして終わるみたいな感じだった

思えば僕が環境の変化に弱いのって普通にこのころからで、これを少しずつ戦って広げていったのが僕の人生だと思う

母さんは僕になんらかの習い事をしきりにさせたがったが全てこれを拒否したし母も強くは何も言わなかった 何かをやりたいという自己主張を怠った ここでピアノとかやっておけば変わっただろうに。せめて、絵の教室に通いたいとか、何かを教わる機会を持つべきだったと思う。

とにかくポケモンで何度も同じパーティーで殿堂入りするとかやってた。決まりきった工程をなぞるのが大好きだった。雑魚狩り最高。毎朝幼稚園に行く前に殿堂入り一発キメてたような覚えさえある

あとバンジョーとカズーイで目をつぶってでも倒せそうなキングコウルを何度も倒したり。安心できる位置から発砲していたいタイプだったないつも。

変化が本当に嫌いだったのだと思う

幼稚園にやっと適応できたのは年中さん以降だった気がするな ようやく泣かなくなった

あと蔦屋でアニメレンタルして観るっていうのがめちゃくちゃ好きだったと思う

特に幽遊白書 これはまじでアホみたいに観た 112話あるんだけど幼稚園時代に3周したことはよく覚えている 

あとスパイラル推理の絆、これ当時の僕にとってはなんのこっちゃわかんねえんだけど面白かったな

何かをつきつめるってタイプじゃなかったね、このころから。ポケモン図鑑とか30匹くらいしか埋まってなかったんじゃないかな。

自分の手の届く、安心できるごく狭い範囲でやっていきたいんだよな。

いっつも同じ構図で青眼の白龍を描いてた。

ちょっとだけ冒険して、あとはその冒険の成果をしゃぶりつくすタイプだ

そういう繊細さを見かねてなのか、母親は僕がこのまま公立の小学校になんて上がろうものならうまくいかないだろうと思ったらしく、受験をさせてきた

受験を頑張ればベイブレードのゲーム買ってあげるよみたいなことを言われたが、お年玉を使ってそのゲームを先に購入するという驚異的な我慢のできなさを発揮していたと思う 何かをエサにして頑張るってことが僕には本当にできない。ADHDだからだと思う。

全然関係ないんだけど僕の育った家庭環境は経済的には不自由がなかったが治安が最悪だった。毎日じじい(祖父)とおおまま(祖母)が喧嘩をしていた。今になってみると相当異常だった。毎日怒鳴りあいしばきあいの喧嘩が繰り広げられていた。絶対に夕飯時だった。ちなみに我が家の夕飯は決まって18時だった。ほかの家は19時だったりしていたので結構驚いた。

食事で思い出したけど僕は小さい頃はかなりの偏食だった。一度好きな食べ物が見つかると飽きるまでリピートする癖があったし、というか炊事担当であるおおままも僕が好きなものをリフレインしまくるという悪癖があった。

父親は僕が5歳くらいのときに単身赴任で埼玉の浦和に行った。まあそこで浮気して離婚することになるわけだけど。

僕は両親のことをパパ、ママと呼んでいた。一人称はなぜか「うち」だった。

こうした呼び方や習慣は年齢を経ると自然と変わっていくと思っていた。この考え方は明らかにポケモンの影響が強いと思う。

自分のことをうちと呼ぶのは変だという指摘を受けたような記憶があるようなないような。そんでいきなり俺にするのはちょっと違和感があるだろと思ってまずは僕でクッションを置くことにした。僕で助走をつけた後に俺にしようとした。でも結局これを直すタイミングが存在しなかったので僕呼びのまま25歳まできた。僕の周りで自分のことを僕呼びする人間マジでほぼ出会ったことなくて、創作物でもハンターハンターヒソカとか逆転裁判成歩堂龍一くらいだと思う

話を戻すとママ呼びは小5くらいでなおした。メジャーの影響で母さん呼びにした。このタイミングではすでに父親は福田家の敷居をまたぐなって感じだったので呼び方を強制することがかなわずパパ呼びで固定されることとなった

で、そういや小学校受験を母親に受けさせられた話だけど運よく地元では一番頭と治安の良い学校に入学することになった。これが僕の人生の中での一番の幸運だった

正直この当時は幼稚園でも仲の良い友達ができたりしていたから、受かりたくなかったと思う。

ちなみにこの学校の入試システムはやや独特で、成績順に上から受験生を合格定員より多めに選定したあと、残った子供たちにくじ引きをさせて定員まで絞り込むというものだった。つまり足切りラインを突破したものの中で、一番成績がよかったやつが落ちることも、ドベが受かることもある。運命力を加味した入試だった。

僕は5月生まれで月齢は高かったこともあってか足切りは回避し、無事当たりくじを引き当てることができたというわけだ。

僕は環境の変化に対してクソザコなので小学校もずっと苦痛だった

最初は泣いてばっかりだった気もする

バスで逃げずに通学してたの偉いよな、そういう規範意識はあんだよ

健ちゃんと仲良くなるまでうすぼんやりとつまんない感じだったな

はー